アラーキーと対峙すると
アラーキーこと荒木経惟氏の「ミューズ」に
ついての記事を読んでざわざわした。
タイムラインでもかなりシェアされていて
様々な意見を目にした。
さて「私はどうだろう?」
20代前半のグラビア時代を掘り起こす・・。
あの記事のようなことはされていないけれど「無料二次使用」については
荒木さんに限らず、もう当たり前の世界。
被写体が声を上げる場所などなかった。
荒木さんはきっと、当時から今もずっと
「エネルギーと愛の写真家」だとは思う。
そこに「愛がある」ということは
同時に悲しみや怒りも生まれるだろう。
もしかしたら「裏切り」もあるかもしれない。
「そこから目をそらさずにしっかり見つめろ」
奥様を写した写真集を初めて見た時、
そんな風に私は感じ取っていた。
荒木さんと対峙した時に、
「ああ、この人には嘘をつけない。
全て見透かされてる」とレンズ越しに感じた。
何故だか泣きそう・・・と思ったら、
「泣いていいよー」とハイテンションに
言われ、潤みながらもこらえたカット。
「アラーキー」という人は、
「顔を裸」にさせる写真家ではないかと思う。
当時、私も写真を撮ることが生活の一部に
なっていたので「写真新世紀」に応募した。
その後送られてきた冊子に、
審査員の方々がコメントを寄せてくれていた。
(荒木さんのコメントはなかった)
撮影後、荒木さんとワインを共にした帰りに
「帰る家を失いボロボロな格好のおじさん」を
目にした。赤ら顔の荒木さんはこう言った。
「ほら、写真を撮ってるなら
ああいうのをすぐに写さなきゃ」
荒木さんの愛機と同じカメラを手にしながら
人差し指がシャッターにいかなかった。
私は写せなかった。いや、写さなかった。
でもそれでいいと思ったんだ。
自由に撮ることを
好きなままでいたかったから。
私は荒木さんのミューズではなかったし、
記事を読んでも知らないことだらけ。
荒木さんのことも、写す写真も好きなままだ。
そんな機会はもうないけれど
「グリグリ施術する私のマスク顔」
今のアラーキー氏なら、
どう「裸」に写すだろう。